阿波の藍なら昔を今に 染まる色香は変りゃせぬ – 木綿の普及による革命的な衣料・ファッションの変革と藍染

江戸時代元禄期頃(1688-)からの全国的な木綿の普及は、庶民の衣服に革命的な変革をもたらし、藍が木綿に良く染めつくことから藍染めの染料として藍の需要は急増し、古来から勝色として武将達にも好まれていた藍染はその抗菌・防臭作用も相まって、庶民生活にとって欠かせないものとなった。

収穫された葉藍は藍師の下で、藍染め染料の「藍玉」(臼などで”すくも”を突き固めて固形化したもの)として商品化され、阿波藍商人(藍玉問屋)によって全国に取引されて行き、各地の機業地で優れた織物製品を数多く生み出した。その品質の高さから、阿波で生産される藍玉は阿波藍と呼ばれ、阿波は藍染め染料の日本最大生産地として、天下に名を馳せていくこととなる。

江戸の神田紺屋町は、慶長年間に徳川家康から軍功として藍染めの権利を与えられた紺屋頭土屋五郎右衛門が支配していた江戸古町の一つで、江戸を代表する藍染めの浴衣と手拭の大半は、紺屋町一帯の染物屋で染められていた。「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほどで、紺屋町の名物が江戸の名物であった。「場違い」という言葉は、神田紺屋町以外で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸人がそう呼んだことに由来するといわれている。
(AwaOdori SNS 特別編集)

第45回「神楽坂まつり」阿波おどり2016


牛込見附および牛込橋が阿波藩主蜂須賀忠英(Tadateru Hachisuka, 松平阿波守)により、江戸城外堀に建設されて以来、今年で380周年となる東京飯田橋(東京都千代田区飯田橋)・神楽坂地区(東京都新宿区神楽坂)で、「第45回神楽坂まつり阿波おどり」(主催:神楽坂通り商店会)が二日間に渡り開催され、会場となった神楽坂下から赤城神社にかけての沿道 (神楽坂毘沙門天善國寺を中心とする会場)は、連日足の踏み場もないほどの賑わいで盛り上がりをみせた。The Kagurazaka Matsuri 2016 AwaOdori Fest was held for two days in Kagurazaka Tokyo. The 380th Anniversary of the UshiGome-bashi Bridge on the sotobori moat of Edo Castle (based on the Uchigome-Mitsuke Gate) since it was originally built by the lord of Awa in 1636.

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文化庁日本遺産認定「淡路島」国生みの島淡路 古代国家を支えた海人の営み Awaji Island, Japan Heritage 2016


文化庁が淡路島を”日本遺産”に認定 (Japan Heritage, 地域の歴史的魅力や特色を通じ日本の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定するもの)。2016年4月の日本遺産審査委員会の審議を経て、本年度の日本遺産(Japan Heritage)認定結果を発表した。

Overview of the story: 我が国最古の歴史書「古事記」冒頭を飾る”国生み神話”。この天地創造神話冒頭に誕生する特別な島が淡路島です。その背景には、新時代の幕開けを告げる金属器文化をもたらし、後に塩づくりや巧みな航海術で畿内の王権や都の暮らしを支えた海人(Ama)と呼ばれる海の民の存在がありました。瀬戸内海最大の島は、古代国家形成期の中枢を支えた海人(Ama)の歴史を今に伝える島です。
The Awaji Island was designated as Japan Heritage 2016 by the Agency for Cultural Affairs Japan.

江戸三大祭り 山王祭, 神田祭, 深川八幡祭


江戸の祭りは、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王さま」と川柳にも詠われる、神輿の富岡八幡宮深川祭、山車の神田明神祭、そして氏子域を広範囲に持つ日枝神社の山王祭が江戸時代から続く江戸三大祭として知られる。

「神田祭」元和年中までは船渡御であったといわれており、延宝年中まで毎年斎行されていたが、「山王祭」(日枝神社)と隔年で斎行することとなり、以後今日まで2年に一度斎行されることが恒例となっている。また神田祭は幕府の庇護を受け、江戸城内に祭礼行列が練り込み、将軍・御台所の上覧があったことなどから天下祭とも称される。明治に入り、山車は大幅に減少し電線架線などの影響から山車は各町に備え付けられるのみとなり、大正時代からは、神社神輿が渡御する神輿渡御祭へと徐々に変遷していった。 明治25年の神田祭より、台風・疫病流行の時期を避ける為、祭月を9月から5月に変更し、以降今日まで5月に斎行されている。(江戸総鎮守神田明神)
「山王祭」江戸城内に入御した御神輿を三代将軍家光公以来、歴代将軍が上覧拝礼する天下祭として盛大を極め、大祭は将軍家康を祭礼とし費用を幕府が支出していたことから「御用祭」ともいわれた。山王祭最大の盛儀は、二代将軍秀忠公の元和2年(1616)からの「神幸祭」で、「徳川実紀」においては、寛永12年(1635)家光公の神幸行列上覧が将軍上覧の初見。以後、将軍の上覧は江戸時代を通じて恒例となり神輿の城内渡御は106回を数えた。

山王祭の神幸行列は、神輿行列と山車行列で構成され、山車行列は氏子の町々(百六十余町)が単独或いは類で参加し山車数45台と決められたが、附祭である踊屋台や練り物に趣向が凝らされ、しばしば華美に亘るとして禁制をもって取締りが行われた。明治維新後、主要道路に電気が通り、高さ4メートルの電線が巡らされるようになると、山車・錦旗は通行困難となり、やがて神田祭と同様に神輿渡御へと徐々に変遷していった。(日枝神社)

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