江戸時代元禄期頃(1688-)からの全国的な木綿の普及は、庶民の衣服に革命的な変革をもたらし、藍が木綿に良く染めつくことから藍染めの染料として藍の需要は急増し、古来から勝色として武将達にも好まれていた藍染はその抗菌・防臭作用も相まって、庶民生活にとって欠かせないものとなった。
収穫された葉藍は藍師の下で、藍染め染料の「藍玉」(臼などで”すくも”を突き固めて固形化したもの)として商品化され、阿波藍商人(藍玉問屋)によって全国に取引されて行き、各地の機業地で優れた織物製品を数多く生み出した。その品質の高さから、阿波で生産される藍玉は阿波藍と呼ばれ、阿波は藍染め染料の日本最大生産地として、天下に名を馳せていくこととなる。
江戸の神田紺屋町は、慶長年間に徳川家康から軍功として藍染めの権利を与えられた紺屋頭土屋五郎右衛門が支配していた江戸古町の一つで、江戸を代表する藍染めの浴衣と手拭の大半は、紺屋町一帯の染物屋で染められていた。「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほどで、紺屋町の名物が江戸の名物であった。「場違い」という言葉は、神田紺屋町以外で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸人がそう呼んだことに由来するといわれている。
(AwaOdori SNS 特別編集)